マーク・デイヴィスさんについてまとめてみたい!(前編)

ハウディ―こんにちは!

 

ユーキャンさん主催の「Country Bear Theater Advent Calender 2022」7日目を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。

 

突然ですが、皆さんはマーク・デイヴィスというディズニーの人物をご存じでしょうか。彼は、ウォルト・ディズニーが生前、絶大な信頼を置いたディズニーのクリエイターの一人です。彼が携わった映画作品には、『ピーターパン』『眠れる森の美女』『101匹わんちゃん』など、ディズニーパークのアトラクションには、「カントリーベア・シアター」、「ホーンテッドマンション」、「カリブの海賊」などがあります。皆さんが好きなディズニーの作品に、一つは彼が携わった作品があるのではないでしょうか。

 

今回の記事では、ディズニーの名作を手掛けたクリエイターであるマーク・デイヴィスさんの生涯について、(一ファンである僕がわかる範囲で)(なるべく脱線しないように)紹介していきたいと思います。この記事が彼のことを知る一つのきっかけになればと思います。

 

マーク・デイヴィスさんの幼少期


1913年3月30日、マーク・デイヴィスは父ハリーと母ミルドレッドの一人息子として生まれました。彼はカリフォルニア州のベイカーズフィールドというという町に生まれました。この町は石油産業で急成長を遂げ、ブームタウン(新興都市)となった場所です。*1

 

ハリー・デイヴィスはこの町で油田開発に携わっていました。働き者だったハリーは、石油が産出される土地を転々としながら仕事に精を出しました。

 

マークはハリーについて、「私の父はね、それはそれは特別な人物でしたよ。彼の仕事ぶりをたとえるなら、”レインボーチェイサー(夢追い人)”だったといえるんじゃないかな。」と語っています。

 

デイヴィス一家は石油ブームを追いかけて、アーカンソー、フロリダ、テキサス、アラスカ、オクラホマルイジアナなど、アメリカ各地に移り住みました。マークが高校生になるころには、23回も転校をしたそうです。彼は引っ越した先々で、その街並みやそこで暮らす人々を観察しました。のちに個性的なキャラクターやアトラクションを生み出すことになるマークの観察眼は、こうして研ぎ澄まされていきました。

 

何度も引っ越しを重ねていると、学校で周囲に馴染めなくなることがありました。マークの妻アリスは彼の幼少期についてこう語っています。

「マークが新しい学校に行くと、休み時間に男の子たちが彼の周りに集まってきて、彼を殴ったのです。それが彼らの挨拶でした。だから彼は絵をたくさん描くようになり、学校に行くとみんながその絵を欲しがりました。みんなに絵を描いてあげると、殴られなかったのです。いつもその子たちのために絵を描いていたので、もう殴られることはありませんでした。それがきっかけでアニメーターになったと彼は語っていました。」

 

彼は自分を楽しませるため、そして守るため、絵を描くことに没頭しました。そのうちに彼の絵はどんどん上達し、周囲から「絵描きの少年」として注目されるようになりました。そして身近な動物や街並みを描き続けるうちに、いつしか彼は絵の仕事を志すようになりました。

 

13歳から14歳のころ、マークはオクラホマ州でアートレッスンを受け始めました。そして、高校生になるころ、短い期間ではありますが、マークはカンザスシティ美術学校で正式な美術指導を受けました。奇遇にもカンザスシティ美術学校はウォルトも通った学校です。

 


修行の日々


マークが17歳になった頃、ディヴィス一家はカリフォルニアに移りました。マークはロサンゼルスのオーティス美術学院やサンフランシスコのカリフォルニア芸術学校で美術を学びました。

 

大恐慌という厳しい時代だったので、マークはお金がありませんでした。画用紙を買うお金がなかったので、肉を包むための紙を肉屋からもらい、その紙に絵を描いて、また新しい紙と交換しました。肉屋は「あの若いのは、いつかきっと有名な画家になる」と語っていたそうです。

 

また、マークはサンフランシスコのフライシュハッカー動物園の副園長の厚意で、開園前に特別に園内にいれてもらい、動物たちをスケッチさせてもらいました。さらに動物たちを目の前で観察させてもらったり、直接触れたりもさせてもらったそうです。特にオランウータンの手に触れた経験は特別印象的だったようです。この頃に動物園でマークが描いたオランウータンのスケッチは、「マーク・デイヴィス作品集」にも掲載されています。

 

午前を動物園で過ごしたマークは、午後には公立図書館に向かい、動物の解剖学を勉強しました。動物の動きや構造に関して研究し、その動きがいかに空間や重力と相互に作用しているかについて理解を深めました。のちに彼はここで得た知識をアニメーションの分野で生かして行くことになります。彼は後進のアーティストやアニメーターに向けてAnatomy of Motion(動きの解剖学)という原稿を残しており、「マーク・デイヴィス作品集」でその抜粋を読むことができます。

 

また、マークはこのころに様々な場所で働いて人生経験を積みました。父から勧められて働き始めたビリヤード場では、ボールを並べ、酔っぱらいの介抱をしました。売春宿ではレジからお金を集め、リングの上で格闘家の世話をし、ボ―ドビルのマジシャンでもあった父のアシスタントも務めました。この経験を通して、人生の何たるかを目の当たりにし、目を開かされるところがあったそうです。ディズニーで印象的なキャラクターたちを生み出せたのも、この時の経験が生きているのかもしれませんね。

 


ディズニー・スタジオに入社


1934年、マークが仕事を探していたとき、大恐慌という厳しい時代でありながら、急成長を遂げている企業を見つけました。それがディズニー・スタジオだったのです。

 

1934年は、それまで短編アニメーションを制作していたディズニーが、初の長編アニメーション作品『白雪姫』の制作へ動き出した頃でした。ウォルト・ディズニーは着手したばかりの『白雪姫』のため、新しいスタッフを集めていました。マークはディズニー・スタジオに入社すると、短編映画のアイディアマンとして働いたあと、『白雪姫』で愛らしい姫をデザインしたグリム・ナトウィックのアシスタントアニメーターとなりました。ナトウィックが描いたラフドローイングを仕上げる作業を担当し、白雪姫とこびとたちが踊るシーンに携わりました。このシーンの出来が良く、マークは先輩アニメーターたちから認められたのです。

 

『白雪姫』が興行的にも批評的にも大成功を収めると、ディズニー・スタジオは『バンビ』の制作に取り掛かりました。しかし、鹿や森の動物たちを愛らしく、説得力を持たせて描く作業は困難を極め、様々な理由によって『バンビ』の制作は行き詰ってしまいました。

 

『バンビ』の制作でストーリー制作に携わっていたマークは、動物たちのスケッチを仕事場に貼り付けていました。これを見たウォルトは、「これを描いたのは誰だ?これこそまさに”森の住人”じゃないか。このスタイルとタッチを大切にするように」と絶賛しました。そのとき彼の描いた動物は戯画と写実のバランスを完璧に捉えていたのです。ウォルトに認められたマークは、『バンビ』のアニメーターに昇格し、とんすけやフラワーを手がけました。学生の頃に動物たちを描き続けた経験が、『バンビ』のアニメーションで発揮されました。

 

無事に完成へとこぎつけた『バンビ』は、1943年にハリウッドのチャイニーズシアターで初披露されました。マークは観客の喜ぶ姿を見て、嬉しさのあまり涙を抑えることができなかったと語っています。この経験がアニメーターとしての彼の人生を決定づけることとなりました。

 

 

名アニメーターへ


その後も、マークは『南部の唄』『イカボードとトード氏』のアニメーターとして、また『シンデレラ』『眠れる森の美女』『ピーター・パン』『101匹わんちゃん』などの作画監督としてその才能を発揮しました。特に『ピーター・パン』で彼が生み出したティンカーベルは、今でもディズニーの象徴的なキャラクターの一人として愛されています。また、『101匹わんちゃん』のクルエラ・ド・ヴィルは、彼が生み出した中でも特にお気に入りのキャラクターであると語っています。アリス・デイヴィスさんによると、クルエラを面白く描けた時のマークはとてもご機嫌で、歌ったり騒いだりしていたそうです。彼が腕によりをかけて生み出したクルエラは、よきライバルのような関係だったミルト・カールさんも嫉妬するほどの強烈な個性を放ちました。

 

素晴らしい作品を生み出すことができてマークは喜んでいましたが、ウォルト・ディズニーはアニメーションの制作をスローダウンしていました。アニメーション制作は莫大な費用と時間がかかるからです。『101匹わんちゃん』でゼロックスの技術が使われた理由もここにありました。さらに、1950年代半ばからウォルト・ディズニーの関心は、アニメーションからディズニーランドを発展させることへと移っていきました。

 

マーク・デイヴィスと同僚のケン・アンダーソンはアニメーションの存続のために、以前から映画化の計画があった『シャンティクリア』というアニメーションの企画を立ち上げ、たくさんのコンセプトアートを描きました。この時のアートは『マークデイヴィス作品集』にも収録されています。

 

マークは、「当時、ウォルトはもう長編アニメーションを作らないことを考えていたので、『シャンティクリア』を完成させれば、ウォルトが興奮して考えを改めるかもしれないと思ったのです。このコンセプトアートは、私がスタジオで手がけた作品の中でも最高級のものだと思います」と語っています。(ジム・コルキスさんによるインタビューより)

 

プレゼンテーションに向けた準備は数か月に及びましたが、いざミーティングが始まると、スタジオの上層部の人々に企画は破棄されました。マークが腕によりをかけた『シャンティクリア』の企画はお蔵入りとなってしまいました。

 

しかし、ウォルトはマークの手腕を見込んで、ディズニーのテーマパーク制作部門であるWEDに彼を引き入れました。ここからアニメーターではなく、WEDのクリエイターとしてマークは新たな作品を生み出していくことになりました。

 

 

 

今回はマーク・デイヴィスさんがディズニーに入社し、名アニメーターとなるまでをご紹介させていただきました。次回もお楽しみに!